千両ヶ辻とは
絶え間ない行き来の続く
京の華やかな商業の地であった 西陣。
古来より西陣織の中心地として栄えておりました。
特に、大宮今出川の辺りは 江戸時代中期より「千両ヶ辻」
と呼ばれておりました。
立ち並ぶ糸屋・・、数々の織物商・・、
一日に千両に値する生糸・織物を商った西陣の中心地でした。
またこの地は、豊臣時代には 幻の城と云われながら・・・
調査の結果その実在が確実とされる、聚楽第の城郭の北側に位置しております。
現在でも、千両ヶ辻界隈の南側には北之丸の堀跡の落込みが確認出来るのです。
一条通の南側には、本丸の跡地を見出すことも出来ます。
千両ヶ辻南玄関口に当る大宮通中立売北西角には、近年地域の篤志家の建造による
聚楽第本丸東濠を表示する石碑も建てられております。
明治期になりますと、その地には「チンチン電車」の大宮中立売の電停が設置されておりました。
繰り返しますが、『千両ヶ辻』と呼ばれ出した、
江戸時代中期頃は、
立ち並ぶ生糸問屋、織物問屋が一日千両に値する生糸・織物を商った地域でありまして・・・
その時代生糸問屋は、主に『千両ヶ辻』界隈に位置する糸屋八町と総称される
【樋之口町・芝大宮町・観世町・五辻町・桜井町・元北小路町・薬師町・北之御門町】で営み、
幕末近代以降樋之口町が抜け、横大宮町・石薬師町・元妙蓮寺町が加わり、
執筆者の説ですが「糸屋十町」となりました。
とりわけこの地は古今糸屋町としての存在の意味合いが強く、
特に江戸時代初期より、幕府の政策であった糸割符制度により
特権を得た糸割符商人が何軒も存在しておりました。
明治期になると生糸問屋街のみならず有力金融機関が出店し、
さながら銀行街の様相を呈しておりました。
幾多の金融恐慌期及び生糸相場の暴落期を乗り越え、
千両ヶ辻の新旧事業者の入れ替わりもあるものの繁栄期を経過し、
大正昭和期に突き進んでまいりました。
後年平成期まで存在した銀行街は、地域の歴史そのものでありました。
加えて、明治初期迄地域に存在したという木戸門・・・。
その伝承も、千両ヶ辻界隈の歴史そのものでございます。
私達はその様な歴史経過と共に、物づくりの伝統を今に引き継ぐ・・・、
この地より、西陣の今を発信しております。
西陣・伝統文化祭「千両ヶ辻」
毎年、秋分の日(9月23日)、晴明神社の「晴明祭」に合わせて開催しております、西陣・千両ヶ辻界隈のお祭りです。